インタビュアーに足田久夢氏を迎え、10/5発売の新譜、そして10/21の発売記念コンサートに向けたインタビューを実施しました。(2022/08/22)
―10/21開催予定の「NAOTO SAKIYA PLAYS BACH」に先立って発売されたCD、
『destined for...BACH』を聴きながら、﨑谷直人氏から公演の抱負などを伺いました。
足田: まず、﨑谷さんにとって、なぜ今バッハの無伴奏なのか、という理由についてお尋ねします。
﨑谷: 今までは、素晴らしい演奏や録音も沢山この世に存在し、自分が人前に立ってこの曲を弾いたり録る意味があるのかと、ずっと自問自答していました。ウェールズSQではベートーヴェン全曲録音などに取り組んでいますが、それは過去の名演とは違う我々なりの新しい景色が出せるだろうな、という確信があったので取り上げてきたのです。その意味で、自分が弾く意味をまだ見出せないものはやりたくなかったのです。
足田: それが今、演奏する意味を見出された訳ですね。
﨑谷: 以前在籍していた神奈川フィルの同僚が、何かの折に私がバッハを弾いた際、「﨑谷さん、ヴォルフガング・リュプザム※①というオルガニストを知っていますか?ヴァイオリン無伴奏をチェンバロで録音していた音源があり、好きで聴いているのですが、﨑谷さんもお好きかな?って思ったんです」と教えてくれました。なるほど、と思って聴いてみたら、まあ面白くて!それが刺激になり、バッハの懐の深さを改めて実感し、自分のバッハを今やろう、と決めました。
チェンバロで弾くことで、ヴァイオリン一本では出しきれない音も、彼の頭で組み立てて演奏しているのですが、ああ、こうやって楽譜を読んで良いのだ、と発想の幅が凄く広がったのです。これぐらい楽譜を自分の中で組み立ててさえいれば、自由にやって良いのだな、と思ったら無性に演奏したくなって。それほど、作品の懐が深い。よくオリジナル奏法とか、ピリオド奏法とか言われますが、スタイルのみに固執するような、狭い枠の中で弾くのが嫌だったのです。
足田: なるほど。そもそもバッハはこの曲も鍵盤で作曲していますしね。
﨑谷: そうでしょうね。本当は鳴っているはずの和声やポリフォニーがあり、それをヴァイオリン一本に押し込んだ、ある種の超絶技巧がこれですからね。自分だったらこうやって弾きたいな、という自信を持ってやるきっかけになりました。
足田: それは今年のことですか?
﨑谷: 神奈川フィルを退団する前の冬くらいでしょうか。私はレコーディングが好きなので、まずはCDを録ろうと思いました。スタッフもウェールズSQと同じレーベルと同じレコーディングチームで、完全な信頼を寄せているいる人たちと一緒にやりたい、と。それで、ここは人生にそう何度もある機会ではありませんから、ヴァイオリニストとして一つの作品を残す事に全集中しようと思い、退団も決めたのです。もちろんこれからも長くキャリアを積みたいし、その前提ですが、自分の体や心、周りのスタッフチームのそれも含め、いつまで思うように弾けるかわからない。だからこそ、数年間かかっても、やりたいこと、残したい物に取り組む時間が欲しいと感じました。
足田: なるほど。話はバッハに戻りますが、この無伴奏には和声的な縦軸があって、オーケストラやカルテット、デュオでそれを演奏するのとは感覚が違うのかと思うのですが…
﨑谷: 一人で色々なことをやらないと、という点では負担は大きいですよね。和声感一つ出すにも、その和音の構築のみに徹することができないので。各声部が横に流れてて、同時に縦の軸とどうバランスを取って弾きこなすか、という感覚がこの曲の肝だと思います。
足田: 今、CDを聴かせて頂いて、そこの処理が全く独自だと思いました。敢えて縦軸でびしっと揃えないのですよね。声部を重ねる時、何か「別な時間をそっと添える」というか…。
﨑谷: はい。そこを聴き取って頂けたのは嬉しいですね!時間が流れる瞬間と、縦に和音が鳴った時の縦軸の微妙なバランス感覚、それがこの曲で一番やりたかったことなのです。
足田: そこは分かりやすい位に出ていますね。
﨑谷: 元を辿れば15年間カルテットでやって考えてきたことがベースになっ
ているのですが。
足田: 数年前のウェールズSQでのインタヴューで、﨑谷さんはこういう言い方をされていらっしゃいました。「私たちは、自分のパートを絶対音感で音を当てるより、響きの中で相対音感的に自分の居場所を選んでいるように思っている」と。相対的に響く声部への対応を常に考えている、というのが今回の和声構築でも活かされている。そういう相対音感的な感覚が絶妙に働いているように感じます。そう言えばイザベル・ファウストも、11歳から家
族でカルテットを組んでいて、自分が第2ヴァイオリンを担当したことで中音域、内声部を意識できるようになったと語っていました。
﨑谷: なるほど。それはきっと大きなヒントになっているでしょうね。
足田: カルテットからソロへ、良いフィード・バックがあるのではないかと。
﨑谷: 常に4声の中で自分の立ち位置を意識できる、というのはあるのかもし
れませんね。音楽の本質ですね。
足田: またそれを、お一人でこういう風にずらし込んで、音を添えていくという発想はなかなか浮かばないのかな、と思いました。
﨑谷: バッハに限らず、クラシックを演奏する時に大切なことは、「時間軸を唯一、歪められる職業だ」ということだと思います。時間は均一に進むけれど、それを一瞬止まったかのような感覚にしたり、急速に流れさせたりできる職業なのです。それが人の心を動かしますし、器楽で言えば歌詞は無いのに、何かしらの叙情を人に与える事に繋がるかなと。
足田: クラシック界の方々は結構「演奏の要は時間の揺れだ」と言いますが、実際、演奏者固有の時間を生き生きと感じられるかというと、なかなか難しい…。
﨑谷: それをどうすれば表現できるかを、私はいつも言葉で説明できるように、具体的に考えています。自分のロジックがあり、常にそれをアップデートしていますね。レッスンに来た生徒にも、しっかり言葉でも伝えられるように。
足田: それだけ問いかけがしっかりあるのですね。感覚や慣れに任せてではなく。このCDでも、ひとつひとつ引っ掛かりどころを解決しながら進んでいる、という印象があります。タイトルが『destined for...BACH』というのは、中々ロックだな!と思いましたが(笑)。
﨑谷: タイトルには2つ理由があります。まずdestened for…という表現は「運命的にそこに向かう」という意味だそうで。善くは「愛に向かう」悪くは「戦争に向かう」等、良くも悪くもどちらの意味にも使うという事から、「バッハに運命的に向かう」という自分なりの気持ちを込めて。
もう一つの理由は、大好きなT.M.Revolutionの7枚目のアルバムに「destined for…」という曲があり、そこから取らせて頂きました。
足田: T.M.Revolutionだったのですね(笑)。
﨑谷: 私が一番音楽をする上で影響を受けたのは、実はクラシックの演奏家以上にT.M.R.とそのサポートミュージシャンの皆さん。ベーシストの山田章典さん、WANDSのギタリスト柴崎浩さんといった方々なんです。とにかく凄くて。
私が15歳位の頃、ヴァイオリンが嫌で仕方なくなったことがあって。今思えば最初の挫折ですが。そんな時、音楽から離れずにいられたのは、彼らの音楽があったからなんです。今もずっと聴き続けているのですが、音楽家として彼等の超一流の演奏に痺れました。どうしてこんなにもアレンジやアドリブができるのか、リズム感やグルーブがあるのかと。CDだとT.M.R.は基本は打ち込みですが、ライブだと毎回アレンジが違うのです。柴崎さんの生き様も半端ないですし。紅白出場までした絶頂期にWANDSを離れてしまう程ですからね。アーティストとしての覚悟が凄いのです。エンターテインメントのトップを極めた人たちが、守りに入らず「自分はこんな音楽がやりたい」と、その時を懸命に生きるような。
そんな彼らへのリスペクトが常にあり、音楽家として生き方の面でも多大な影響を受けていますね。
足田: 面白いお話です。ここで、CDに収録された作品を中心とした、今回の演奏会で演奏される各曲について、聴きどころ等を教えてください。
﨑谷: ソナタ第1番の第1曲、アダージョは特にそう変わったことをしてるつもり
はありませんが、声部の豊かさには留意しました。声部の繋がりですね。
第2曲のフーガは原譜に書かれていない音も足しています。それを出すために、あえて時間の拡大と密度を作りました。
当然ですが、このテーマである「レレレ、レドシドラシ」に続いて「ソソソ、ソファミファレミ」とフーガで続いていく中で、並行する声部に休符が二つ入れている。ということは、ここに本当は音がある前提が読み取れるのです。
足田: あるべき音を想像させているのですよね。
﨑谷: そこにバッハが休符を書いたということは、当時の演奏法では弾けなかっただけなのだと想像します。ですから音符を書かなかったけれど、現代の楽器や技法だと弾ける箇所もある。
それが伝統に忠実かどうかと言われたら、全く忠実ではありません。そんな音符は楽譜に書いていない、という人もいるかもしれないけれど、そんな事は分かっています。一応プロなので(笑)、あらゆる音楽の形式やスタイルは勉強はしています。
そのうえで敢えて加えています。そこに人への新しい発見の提示と、私が弾く意味が表れてくると思うので。それが私が大切にしていることで、再現することに重きを置いていないのです。あくまで現段階ですが。
足田: T.M.R.から受け継いだアドリブ精神ですね。この「時間との戯れ」は、実
際のコンサートでも聴けるのでしょうか。
﨑谷: ライブで実際弾く時には、もう少しリズムをまとめるか、より拡張するか…それ
と会場の響きの循環やその時に生まれる時間によっても調整しますかね。カテドラル教会では音が回ってしまうと思うので。でもそれを含めて楽しめると思っています。
足田: 3曲目のシチリアーノも、メロディを歌う事にこだわってない、というか。
﨑谷: そうですね、パッセージというか、声部をどう重ねるか、ですね。
足田: 4曲目のプレストはいかがでしょう。
﨑谷: 一つの和音で区切って演奏しています。和声が変わるタイミングを大切に、間合いを選ぶように演奏にしているのです。ウェールズSQでも共通してる手法ですね。和音で形を作っていって、その中で音の高さによる自然なアゴーギク※②…。音の高低差やリズムの変化で時間とフレーズが変化していく事でドライブ感を生み出しています。
足田: 無伴奏でも一番、高低差のある曲ですよね。ゼクエンツ※③が多用されていて。
﨑谷: はい。音のジェットコースターみたいに聞こえていい曲ですね。もうひとつ、このプレストは皆、速く演奏し過ぎだと思います。この当時のプレストはそんな速くないはず。少し遅めに設定したのは、進む時間と戻る時間をより体感できるようにしたかったからです。
足田: 﨑谷さんの速度の感じさせ方は、シフトするところだと思うのです。ミデ
ィアムテンポから、一気に、巻き込むように速くなるところで速度を体感させればいいので、曲全体を速くするとかえって平板になりますしね。
﨑谷: それを感じて下さったなら狙い通りですね。全体の速度に頼るとある意
味、無窮動のようになってしまうので、速さを競うような演奏にはしたくはありませんでした。
足田: CDでは収録されていませんが、コンサートでは2曲目に当たるパルティータ第3番についてはどうでしょう。
﨑谷: 1曲目のプレリュードは、この作品群の中で一番軽い、世俗的な曲調です。
そこにE-Durという、いわゆる天国の調と言われる一番対極にある調性を敢えて持ってきていることに、この曲を解釈するヒントがある、と思うのです。
足田: わざわざ教会ソナタではなく宮廷ソナタ(パルティータ)に持ってきていることに意味を感じ取られたのですね。
﨑谷: はい。何故、このプレリュードを教会ソナタの方に入れなかったのだろう、という想像をすることが、この曲を演奏するために一番大事な一歩だと思っています。
足田: 当時、ケーテン時代のバッハは宗教曲の作曲を全く求められていなかったのですよね。「うちは宗旨が違うので、カンタータは要らない」と。ですからケーテン時代には世俗的な傑作、ブランデンブルクや管弦楽組曲が多いわけです※④。
﨑谷: なるほど、面白いですね。
足田: それらの世俗的な曲に、例えばブランデンブルク第3番3楽章にバッハはのたくるような16分音符と、それを鎮めるような分散和音の音型によって、龍=サタンの軍勢と迎え撃つ天使たちを描きました。そのように音型で象徴的に描くのはカンタータの典型で、そうやって世俗の曲に宗教曲を忍ばせていた。プレリュードもE-Durで書かれたということで、宗
教的な思いを世俗の曲に落とし込んだのだろうと思います。
﨑谷: 話しは飛びますが、例えばシャコンヌも、要するに三位一体ですからね。
足田: 主題と30の変奏のちょうど真ん中の16変奏の転調で、ふわっと天からの啓示、恩寵というか、そういう柔らかい光が感じられますね。バッハを理解するのにプロテスタントの信仰、という要素は落とせないということでしょう。プレリュードの曲調ですが、明晰だけど同時に眩惑的でもあるように感じます。
﨑谷: これは当時、演奏するのも相当難しかったと思います。「ティカティカテ
ィカティカ」っていう移弦の部分、これは当時の人は演奏出来たのかなあ?と疑問です(笑)。「ソミソミソミソレ」の跨ぐ移弦とか、絶対にありえないような半音がぶつかったり、余程の強い感情ですよね。
足田: 只の明るい曲では全然ありませんね。あと、パルティータ第3番の曲名だけ、フランス語表記なんですね。
﨑谷: フランスから来た舞曲というのは、より世俗的なのです。宮廷風に気取っていないで、もっと愉しもう!という。
足田: パルティータ第2番についてお伺いします。
﨑谷: 私の演奏の話とは別になってしまいますが、実はこのコロナ禍が始まって活動が止まっていた時期に、五嶋みどりさんのパルティータ2番をずっと聴いていました。2015年の録音だったかな。形式とか様式、スタイルなんて小さな次元に留まらず、固執してなくて、けれどそれらは全て承知の上で。本当にハートの強さを感じて感動しました。彼女が取
り組んでこられたであろう活動や経験と、学ばれてきた全ての要素が一曲一曲に高い次元で融合されているのかなと感じて。彼女のCDで、ちょっとした掠(かす)れとか、粗があっても、それを敢えて編集せずに残せてしまう人間力というか。生身の人間の美しさを感じました。お会いした事もないのですが、あの録音にはとても大きな刺激を受けました。ぜひ私のCDを聴いてくださったかたにも聴いて頂きたいです。比べるなんて事ではなく。そんなのおこがましいですし。
足田: そうなのですね。今回の﨑谷さんの録音は?作り方など。
﨑谷: 私はものすごい作り込みますから、一つのパッセージでも納得するま
で、何十回と弾きますね。
足田: 最初は一曲全体を通しで演奏するのですか?
﨑谷: ほぼ通しません。頭の中に全体像はあるので、場合によっては数小節単位で、何度も弾いて作り込むスタイルです。
足田: 編集を前提として作るのは、グレン・グールドに近いですね。
﨑谷: 確かに。粗を削るとか、そんな作業だけでは無くて。それもありますが(笑)。例えばシャコンヌは第一編集が仕上がった段階で一つもNGはありませんでした。「作品として何を残す」ということですから、レコーディング中はある部分を30分くらいひたすら繰り返したり。その間エンジニアの方はずっと黙って聴いている。でも、耳が抜群に良いので、ひと段落して「これで納得されてますか?」と。そうして最良のテイクが出るまで妥協せずに高めあうのです。信頼しているからこそ、自分がその時に出しうる最高の演奏を絞り出し、それを組み立てる作業を演奏を録りながら同時に考えても貰い、そこは委ねる。そうして技術を出し合い作っています。
演奏面で言えば、バロックの観点からすると、あまり変奏曲でテンポは変えないのかな?と。当時の演奏スタイルを再現する、という意味では分からないけれど、私が大切にしている観点ではバリエーション毎に変わっても良いと考えています。
足田: やはり変奏は愉しまないと。
﨑谷: そうですね。シャコンヌは一曲だけで15分もかかる。最初にバッハがこの
曲を書き出した時と、構想がどんどん変わってきているように思うのです。初めの構想では転調の前で曲が終わっていたかもしれない、もしくはこんなにバリエーションが続くと思ってもいなかった?とか、途中でありとあらゆるものが頭に浮かんで止まらなくなってしまったのか、なんて妄想できる程ですよね。ほぼオルタナティブの原型のような作品に感じます。ベートーヴェンの大フーガなんかにも感じる感覚ですが。現代人がシャコンヌを聴くと確かに「良い曲」と感じられるでしょう。結果として構成がしっかりしていますから。でも当時聴いたひとは唖然としたと思うのです。え!?一体どこまでいくの?と。そういう驚きこそを体感として現代に再現してみたいのです。当時はこう弾いてきました、と答え合わせするのではなく、当時の人が感じたであろうと同じ衝撃を今表現しようとしたら、ありとあらゆることが、あえて悪く言えば誇張した形になってしまうかもしれません。それを恐れるのをやめようと。曲一つで、聴いてる人が様々な感情になったり、新しい発見をしたり、という演奏にしたかったのです。
順番は入れ違いますが、サラバンドもすごい好きな曲。舞曲だと分かっていますよ。形式としてのステップの踏み方も勉強しています。でもテレマンなどとの一番の違いはそこなの
です。「舞曲だから踊れる曲を」というのがテレマンでしょう。そこに器楽の技巧をちりばめるスタイル。バッハはそれ以上に複雑で、理解するのにより深い思考が必要な和声やフレーズを沢山生み出しています。踊ることより重要な事があって、現代の奏者として見た時に、バッハの作品のその部分が大きな分岐点になったのではないかと。
足田: テレマンは「ターフェルムジーク(食卓の音楽)」などを注文通り作れる職人なのですよね。
﨑谷: そうですね。ポピュラー音楽を作る天才。日本で言う織田哲郎さんのような(笑)?
足田: だからテレマンは当時、大人気だったのですね。
﨑谷: はい。ですからオルタナティヴなんです、バッハは。踊るという目的・形式からは大きくはみだしてしまう。よくあるでしょ?バッハの曲に合わせて踊る動画とか。私はあまり共感できないのです(笑)。踊ることよりも、音楽そのものが持つエネルギーが強いから、視覚と組み合わせるほど単純な芸術ではないのかなと…。
足田: 今回のCDは、一言でいえばマニエリスム※⑤だ、と感じました。編集も含めて表現、というコンセプトを伺うと、グレン・グールドの記録映像などが、気持ちよくフラッシュバックしてきました。10月のカテドラル・ライブではどういう演奏が聴けるのか、展望をもう少し聞かせて頂けますか?
﨑谷: 演奏会で「〇〇全曲演奏会」など、マラソンコンサートのようなものに個人的にあまり興味がないのです。曲を選んだり組み合わせる事からコンサート作りは始まり、それがドラマ、各奏者のこだわりや面白みだと私は思っています。実は、パルティータ第3番は自分が本質的に持っている音楽家としての個性とそれほどマッチしている曲ではないと感じていて…。私は自分の音楽に対してどちらかというとネガティブですし、オープンマインドな演奏家ではないので。第3番には第2番ほど狂気的な魅力を感じない。とはいえ実はメヌエットⅠに1か所バッハの狂気を感じて大好きな部分があるのですが、あえて言いません(笑)。そんなこんなでパルティータ3番は緩急の時間構成を考えて演奏会に入れました。調性として引き合うソナタ第1番とパルティータ第2番のドラマの間で、箸休めとして第3番を入れる、という形で今回はご提供いたします。
あ、ちなみにCDでは、シャコンヌの最後のテーマに、ソナタ1番フーガのテーマを装飾に入れています。そんな風に、全体を通して一つの作品として美しい形を提示できたり、演奏会で表現できたらと常に考えています。
註)
※① ヴォルフガング・リュプザム
師匠ヘルムート・ヴァルヒャの重厚なアンマーチェンバロの響きとは対照的に、リュプザムが弾くガット弦を張ったリュートハープシコード(ラウテンヴェルク)の明るい音色は、バッハそのひとが好んだ音だという。
※②アゴーギク(ドイツ語:Agogik)
緩急法。テンポやリズムを意図的に変化させること。
※③ゼクエンツ(ドイツ語:Sequenz)
反復進行。ある楽句を音高を変えながら反復させること。
※④ケーテン時代の傑作群
当時、プロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世(「音楽の捧げもの」で有名な
フリードリッヒ大王の父親)は別名「軍人王」とも称される軍隊マニアで、高身長の兵
士を揃えた「ポツダム巨人軍」等を自慢にしていた。王の「音楽なんてちゃらいものは
要らん」という一言で首都ベルリンの優秀な宮廷楽師達が馘首され、そのままケーテン
侯レオポルトが召し抱えて楽長バッハに委ねる、という幸運も味方した。
※⑤マニエリスム(イタリア語:Manierismo)
美術用語で、伝統から逸脱した独自の技法・構成を追求する姿勢のこと。エル・グレコの極端に引き延ばされた身体表現などを指す。音楽的にはピアニスト、グレン・グールドの代名詞ともなっており、バッハ「トッカータ」録音等で顕著な声部ごとの絶妙な時間の重層や、ダイナミックな速度変化は﨑谷氏の今回のCDにも共通する。
絵画におけるマニエリスムは、臨場感あふれる絵画の革命児カラヴァッジオの登場で消退し、一気にバロック時代の幕開けを迎えた。表現技巧の粋を尽くした﨑谷氏のCD録音だが、今回のライブ演奏では目の覚めるような「バロック」の出現が望まれるところだ。
◎インタヴュアー:足田 久夢(たりた くむ) プロフィール
音楽評論家、歌人、文藝執筆家。
立教大学大学院 文学研究科日本文学専攻 卒業。
近代文学を前田愛、映画表現を蓮實重彦、バロック音楽を皆川達夫、の各氏に師事。
1983年、立教大学在学中に「群像新人文学賞」評論部門の最終選考に選ばれる。
駿台、東進ハイスクール、横浜アカデミー等、数々の予備校にて現代文、古文の講師として教壇に立つ傍ら、映画解説・音楽解説を執筆。
2000年より歌人、塚本邦雄氏に師事し、2001年「与謝野晶子短歌文学賞」優秀賞受賞。
詩歌、文芸時評を歌誌「玲瓏」に連載。
2019年より(公財)神奈川フィルハーモニー管弦楽団の公演プログラム楽曲解説を担当している。
自身のモットーは「小説は総譜(スコア)のように、音楽は映画のように」読み解くこと。
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